弱いロボット コミュニケーションの本質とは?
弱いロボット (紹介:渡辺光輝)
こんにちは。渡辺光輝(わたなべこうき)と申します。東京の中学校で国語を教えている一教員です。
このたび、妹尾さんのおすすめもあり、またこのサイトの趣旨に共
私が紹介する記念すべき第一冊目は、岡田美智男『弱いロボット』
人間らしいコミュニケーションができるロボット
この本は、人間と会話するロボットを研究している学者さんの本です。
会話ロボットの研究といっても、人間らしい口の動きとか声の出し方を研究しているというものではなく、「人間らしいコミュニケーションをどうやってロボットで作り出すか」という、非常に「人間臭い」ことをやろうとしているのがこの研究です。
ロボットの研究を通じて「人はどうやってコミュニケーションをしているのか、人間らしい会話とは何なのか」という謎にグイグイと迫っていきます。
その結果辿り着いた結論が「弱いロボット」というキーワードです
岡田さんの言う「弱さ」とは「たよりなさ」と言い換えることができます。
人は「頼りない」存在を見つけると、放って置けなくなります。「どうしたの?」と話しかけたり、「もーう、本当にだめなんだから!」と世話を焼きたくなります。このように「弱さ=たよりなさ」には、逆説的にいうと「他人が積極的に関わりたくなるという強み」が備わっているともいえます。
このコペルニクス的転回。役に立つロボットではなく、(人間がいないと)役に立たないロボットこそが、「人間とのコミュニケーションを引き出す」ロボットだったというわけなのです。
ちなみに、岡田さんの作ったユニークな「弱いロボット」はこちらに紹介されています。
https://www.icd.cs.tut.ac.jp/p
「一人ではゴミを拾い集められないゴミ箱」など。どうですか、思わず「なんとかしてあげなくちゃ!」と感じてしまいませんか?
人間らしいコミュニケーションとは?
このロボット研究は「人間の会話やコミュニケーションとは一体何
ちょっと話は脇道にそれます。
私は国語教育が専門なのですが、つねづね、国語教科書にある「話
教科書には「こうやって話し合ってみましょう」という台本のよう
しかし、教室でそのとおりにやっても、ぜんぜんリアルな対話らし
そこで、生徒が実際にどうやって話し合いを進めているのか、グル
反対に、上手くいかなかった話し合いほど、発話は話し始めから終
不完全だからコミュニケーションになる。
「不完全」な発話のやり取りが、どうしていい話し合いになるのか
この謎を解くキーワードが「弱さ=たよりなさ」なのではないかと
「不完全」な発話を、お互いが補い、支え合う、その関係性の中に
会話における相互のシンクロニー(同期)という現象を見出したウィリアム・コンドンは、かつて「会話とはダンスのようなものだ」 と形容したことがある。二つの身体が付かず離れず、 寄り添いながら、ある「場」を作り上げる。 他の人を寄せつけない一つの「世界」である。 次のステップを考えながらのダンスでは、ギクシャクとしてしまう ことだろう。同様に、次の発話を考えながらでは雑談にはならない 。相手のステップをなかば予期しつつも、無意識に次のステップを 繰り出していくのと同じで、雑談の中で自分の発話の意味もそこそ こにとりあえず繰り出し、相手にあずけてしまう。 そういう意味での「いい加減さ、無責任さ」も必要なのだ。( pp.24-25)
コミュニケーション、対話の本質は「不完全さ」とか「頼りなさ」「弱さ」にあるということ。ダンスのように、一人がよろけると、もうひとりがそれを支えて押し返す。よろけても、その流れに乗っかってお互いに進んでいく。そういう「不完全」のやり取りの中で、お互いが身を委ね合い、支え合って、共有する「場」を作り上げていく、と。
二足歩行と会話に共通する本質
言葉による対話のやり取りと同じように、実は人間の歩行にも似たようなことがいえます。
ロボット開発では、自然な会話と並んで、最も難しい課題が自然な二足歩行でした。
ロボットの二足歩行の技術で画期的な転換点となったのが「静歩行」から「動歩行」への発想の転換だったといわれます。本文から引用します。(あの有名なホンダのロボット、アシモが登場します)
これまでの「静歩行」モードでは、重心は常に足底の範囲に保持された状態での歩行になっている。感覚的にいえば、薄氷のはった池の上を歩く感じに近いだろうか。片方の足に重心を置きつつも、恐る恐るもう一方の足を前に進めながら、慎重に身体の重心を移動させていく。氷が割れないことを確認しつつ重心をもう片方の足底に移していくのである。ロボットの歩行に対する私たちのイメージは、こうしたぎこちない歩き方であった。
一方、アシモやそのプロトタイプの一つであるP―2で実現した「動歩行」モードでは、自らその静的なバランスを崩すようにして倒れ込む。しかし倒れ込みながら踏み出した脚が地面からの反力を受け、それを利用して動的なバランスを維持しているのである。この一歩を踏み出すとき、重心の位置は脚底の範囲から前に少しだけはみ出してしまう。自分の身体を地面に投げ出している感じだろう。
身体と地面の間には、この「委ねる/支える」という絶妙ともいえる連携プレーがある。「私たちは地面の上を歩いている」と考えやすいけれど、同時に「地面が私たちを歩かせている」ともいえるのだ。もう少し丁寧に考えるのならば、何気ない一歩とそれを支える地面とが一緒になって、いわゆる「歩行」という一連の行為を組織しているということなのだ。(pp.64-65)
実は人間の二足歩行も、会話のコミュニケーションも、その本質には共通するものがあります。それは、不完全な自己の存在を、他者に「委ねる」ことと、それによって「支えられる」ということです。この「委ねる」行為を、岡田さんは「投機的な振る舞い」と呼びます。つまり「賭け」なわけです。
二足歩行も、会話も、リスクを取って前に一歩踏み込む、他者に話しかけるという「賭け」という「不安定さ」がその本質にあるということ。
岡田さんはこう言っています。
思い切って何かに自分の行為を委ねてしまおうという無謀ともいえる身体の振る舞いを「投機的な振る舞い(entrusting behavior)」と呼ぶことにしよう。一方、そうした投機的な行為を支え、その意味や価値を与える役割をグラウンディング(grounding)と呼ぶことにしたい。
この二つの関係は、はじめはギクシャクしながらも、次第に馴染んでくる。ついにはどちらがどちらを支えているのかさえわからなくなってしまう。(pp.66-65)
歩行は身体の中に完結せず、身体と大地の関係においてはじめて成立する行為なのだ。大地から受ける力は、人体の歩行系の中に閉じていては知り得ない。歩くためにはとりあえずの一歩を踏み出さなければならない。それは会話でも同じである。(p.101)
いかがでしょうか。
この本は「人間らしいコミュニケーションをするロボットを作る」というテーマでありながら、根底には「人間はどうやってコミュニケーションをとっているのか」、そして「人間は他者や環境とどう関わって生きているのか」という哲学的な問にまで迫ろうとしている一冊だということがお分かりいただけたでしょうか。
実際の内容は、そんなに小難しい議論だけでなく、具体的なロボット製作の試行錯誤(上手くいった例とかそうでなかった例とか)が豊富に載っていて、そのロボットの姿をイメージしながら内容を考えることが出来るので、私のような文系人間でも、ロボットの素人でも全く心配することなく楽しめる一冊になっていることは強調しておきたいと思います。
やはり、この本でなんといっても面白いのが、一生懸命コミュニケーションを取ろうとするロボットの姿を見て、自分自身のこれまでのコミュニケーションを問い直すことができるところです。
国語の授業にかぎらず、普段の教師と生徒との関わり、そして生徒同士のコミュニケーションをどう豊かにしていくかという観点でも、ものの見方がガラッと変わるいい本ですよ。興味を持った方は、ぜひ本を手にとってお読みください。
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渡辺 光輝 (わたなべ こうき)
中学校の国語科教員
表現(作文)教育、読み書き関連学習、学校図書館を活用した学習、ICTを活用した国語学習に関心を持ち、実践を進めている。論文、研究発表も多数。
ブログ:
http://kokiwata1.wixsite.com/koki